経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心


御用学者の公共心
大学教師の公共心に関連しては、「御用学者」も当然問題になろう。多くの大学教師が政府の審議会・有識者会議などの委員になりたがる。声がかかれば嬉々として受け、最終的には政府の意向を支持するようだ。「こういう別の考えもありますが、仕方ありませんね。」と述べるのが、御用学者を依頼され続けるための秘訣だといわれる。
ネット上には「御用学者の一覧」なども出ており、そのなかには「人文社会科学に立脚する幅広い教養」を重視する石弘光元一橋大学学長や、独立自尊を標榜する慶應義塾大学の清家篤元塾長などの名前も見られる。吉川洋元東大教授もネット上で多くの人に財務省の御用学者とみなされているようだ。彼はケインズ主義者だと思われていたが、小泉政権に協力して新自由主義的な政策に加担して、多くの人を驚かせた。藤井聡京大教授は顕著な言動不一致で疑問を感じさせたが、やはりネットなどで国交省の御用学者といわれている。
人社系教育の最も重要な役割の一つは、批判精神の育成であることを、ここまでに議論してきた。御用学者は一見国民のために奉仕しているようで、実際は政府ないしは官庁の意向を汲んで行動しているにすぎない。さもなければ早晩首になる。こうした生き方は、権力と距離を置くべき批判精神や公共心と正反対だ。御用学者になるためには、自分の年来の見解を隠すことも憚らない。政府の考えが変わると、御用学者は自分の意見を変える。彼らのなかには、学長などの重職に就いている者も少なくない(強い権力志向のための相関)。彼らが政府の仕事で大学の会議を欠席・遅刻するようになると、重大な職務怠慢といえよう。
権力は人間を強く引きつける魔力をもつ。そのため、多くの人間は権力を欲したり、権力の側につくことを選んだりする。批判精神とは突き詰めると権力や権威を批判する態度であって、こうした人間の性向を戒める考え方にほかならない。しかし人社系の人間でありながら、使われていることにも気づかずに、多くの経済学者は権力に取り込まれたり摺り寄ったりしてしまう。官僚がはっきりと「御用学者を使って何々をする」というのを私は聞いたことがある。
経済学者が日本人の幸福を考えるということは、国民全体にとっての最善を探究することにほかならない。そのためには権力や特定の利益集団と距離を保つことが必要で、それが経済学者という職業に対する社会一般の信頼も高める。批判精神はこのような条件の下でのみ発揮可能だ。
近年、教員の業績を学内外に公表する大学が多い。そして、審議会委員なども業績とみなすべきだという圧力が、学内外から生じている。だが、業績一覧にそれらの記入欄を設けることに、私は教授会で反対した。大学自身が御用学者になることを推奨していることになるからだ。それらを書きたい人は、「その他」の欄に自分の意思で書けば済むではないか。
福沢(二〇〇八)の次の「御用学者批判」が参考になるかもしれない。「これをもって世の人心益々その風に靡(なび)き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)い、毫(ごう)も独立の丹心を発露する者なくして、その醜態見るに忍びざることなり。」

福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波書店、二〇〇八年。

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