経済学部は必要なのか(36) 公共心を向上させる教育研究


公共心を向上させる教育研究
 日本人に顕著な向学心や勤勉の精神は、強い公共心と一体になっていた。かつての多くの日本人は、社会に役立つ仕事をしよう、苦しんでいる人たちを助けよう、日本を輝く国にしようと念じながら勉強し働いたのだ。教養主義が学生を強く引きつけたのは、それがこうした公共心の根本に訴えたからである。彼らは私的利益よりも社会的利益すなわち公共性を重視して勉学に励み、金儲けのための勉強を蔑んだ。
 しかし、今日では公共心の低下が極度に進み、向学心や勤勉の精神は一般に希薄になってしまった。それが第二章でみた深刻な不勉強の主因である。もし日本人が私利のために勉強するのであれば、時代とともに私利追求を容認する度合いが高まってきているので、学生はいっそう勉強熱心になっているはずだ。現実はその逆であることを考慮すると、公共心が向学心のなかで大きな割合を占めることがわかる。
学問は社会のため他者のためにするのが基本だ。今の日本の学生が不勉強なのは、私利追求の度合いが強く、勉強しても自己利益にならないことを感じているからだろう。確かにほとんどの人文社会科学の教科書を開いても、金儲けの方法の説明を見出すことはできない。
 ここまでにわれわれは、人文社会科学が社会にとっていかに重要であるかを説く見解を検討してきた。人文社会科学が広い視野や判断力そして特に批判精神を備えた人間を生み出し、社会を優れた状態に導くといういくつかの見解である。新聞や雑誌や書籍でこれらの見解を読んだ人たちのなかには、人文社会科学の教育を受けた人間が、批判精神や広い視野や判断力などを備えていると思い込んでいる人もいるかもしれない。
しかし、右で触れた何人かの文系人間が示唆するように、それは幻想にすぎない。現実のほとんどの文系人間には、批判精神や広い視野や判断力などが備わっていないのである。そうした見解を表明した人たち自身に、特に批判精神が備わっているのか、また重要な場面でそれを発揮してきたのか、さらに批判者に適切な対応をしてきたのかを、詳しく説明してもらいたいものだ。
 私の短くない教師人生において、「日本を素晴らしい国にしたい」というような公共心を私に告げた人社系学生は一人もいなかった。それらしき態度を示した者さえいない。ほとんどの学生は楽な人生が約束される就職ができさえすればよいと考え、それに合わせて勉強する程度であった。
 日本人の伝統的な公共心は世界的にも抜きんでている、と私は考える。ハンチントン(一九九八)が日本を独自の文明の一つと数えた理由の一つはそこにあろう。それは今日の世界の閉塞感を打破する可能性をもつ。われわれは日本文化の教育と研究にこそ、多くの労力を投入すべきだ。日本文化にも弱点があるものの、それは多大な世界的普遍性を含む。日本文化を称賛する外国人が多いこともそれを示唆していよう。日本の人社系研究者は米国標準に従うのではなく、むしろ日本文化の長所を抽出し理論化して世界に広める努力をすべきなのだ。これらのことを念頭に置きながら、次章では経済学部の学生や教師に注目し、その公共心を具体的に検討してみよう。

ハンチントン、サミュエル『文明の衝突』 鈴木主税編注)集英社、一九九八年。

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