経済学部は必要なのか(38) 経済学教授の公共心


経済学教授の公共心
 二〇一五年に東大は「東京大学ビジョン二〇二〇」を公表した。そこには、「学部・大学院を通じて、東京大学の教育理念である『世界的視野をもった市民的エリート』(東京大学憲章)の養成を基本としつつ、公共的な視点から主体的に行動し新たな価値創造に挑む『知のプロフェッショナル』の育成をはかります。」と謳われている。
さらに、「二一世紀の地球社会においては、大学の果たすべき社会的な役割がこれまでになく大きくなっています。それゆえ、東京大学も、『学問の自由』を堅持しながら社会における多様な利益の増進に貢献する責務を負っています。そしてそれは、何よりも日本と世界における真の『公共性』の構築と強化への貢献を通じて行われるべきものです。」ともいう。
こうした教育や研究を行うためには、まず教師自身に強い公共心が必要だ。さもなければ公共性の構築と強化に貢献できる人材の育成や研究など不可能だからである。強い公共心とは、自分に大きな不利益が生じる場合でも、公共性を重視した判断を行い実行する精神にほかならない。進んで自己を犠牲にする精神だ。
研究面で東大は日本一優遇されているので、その教員、特に教授は全力で日本を支えていくほどの使命感を持つべきである。東大卒業者も、在学中に日本で最も贅沢な教育を受けたのであるから、どこで働こうと最大限の公共心を発揮しなければならない。程度の差こそあれ、他の「一流大学」卒業生も同様である。
はたして、彼らは日本国民のために日々粉骨砕身しているだろうか。経済学者に関するかぎり、私はそのような人のいることを見たことも聞いたこともない。三十数年にわたる私の教師人生の間に、率先して不正を糾弾したり正義を実行したりするほど強い公共心・批判精神をもつ経済学者を見たことがないのだ。別言すれば、思わず拍手喝采をしたくなるような正義感溢れる経済学者の行動を一度も見たことがない。おそらく経済学教師は、全分野の大学教師のなかで最も公共心が希薄ではないか、と私は推察している。この点は次章でも問題にしたい。
東大出身のある有名な経済学教授は、専門の論文や著書をほとんど書かずに、一般向けの本(経済学と無関係の本も含む)を多数出して莫大な富を築いた。講義の準備はほとんどしなかったようで、出欠調査に多大な時間を使い、講義中につまずくと十分でも二十分でも沈黙して考えていたという。メディアでは高尚なことを述べるけれど、学内政治では批判精神など発揮しなかった(そうしたら排除されると知っていたからであろう)。私は学生時代に、メディアに頻出する他の経済学者の講義を受講したことがある。彼はよく社会正義を口にしたが、講義の半数以上が休講だった。
大学教師がテレビや週刊誌などに頻出することは問題である。右のごとき職務怠慢や自己矛盾を伴うためだ。出演やその準備などのための時間は多大で、教育研究活動が大きく制約される。東大などの「一流大学」の卒業者は、多大な国税を使って教育を受けたので、メディアで金儲けなどをせずに、国民全体の利益になる仕事に専念すべきだ。税金投入の目的はこの「公共性」にある。内容の薄い「容易に理解できる経済学」というような本を執筆するのも、市民的エリートにふさわしくない。そんな時間があれば、わが国の重大な経済問題を真剣に考えるべきだろう。「公共性」の構築はお金にならない厳しい道である。

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