経済学部は必要なのか(37) 今日の学生の倫理感


第四章 経済学部の学生と教師の公共心
今日の学生の倫理感
 公共心の第一歩は他者に対する配慮であろうが、それに欠ける学生が今日では多すぎる。見聞した例を挙げておきたい。教師が推薦書を書いて渡しても、黙って受け取り一言の礼もいわない学生がいる。事務室で成績証明書を受け取るような気なのだろう(事務室でも軽く礼をいうべきだ)。推薦書の執筆は教師の義務でないが、普通はできるだけよく書こうとするだろう。多額の奨学金のための推薦書を書いても、採用されたことを教師に知らせない女子ゼミ生がいた。
海外留学用の推薦書の執筆はたいへん面倒だ。各大学のホームページにアクセスし、大学ごとに異なる書式に合わせて、多数の項目に記入しなければならない。長時間緊張して疲れる。指導教員が大学院生の希望する約三〇の大学に推薦書を送ったけれど、彼はどの大学から入学許可が来たかを自分からは教員に知らせなかった。ゼミで顔を合わせても長い間無言だったので、教師が聞くとようやく結果を告げる始末だ。教員の労力をこれだけ使ったら、研究室に出向いて入学許可通知の報告をし、丁重な礼をいうのが当然ではないか。留学して落ち着いたら近況報告ぐらいはしてもよいと思われるが、電子メールで容易にできるのに、それさえもなかった。
教師から推薦書を受け取ったら、すべては終わりと学生は考えているようだ。その一方、卒業して十数年も音信不通だった元ゼミ生が、海外から電子メールで推薦書を依頼してくる場合もあった。商品券をもって研究室に推薦書の依頼に来た卒業生もいる(当然受け取らない)。
 有力大学院には、研究者などの公共性を有する職業を目指して多くの学生が入学してくる。しかし彼らには倫理感の欠如した者が多い。最近の大学院生の実態を紹介しておきたい。
 大学院ではゼミにおける研究発表がたいへん重要で、通常は何ヵ月も前に発表の日程を決めておく。各人はその日程に合わせて猛勉強し、発表の準備をすることになる。にもかかわらず、何の連絡もなく、予定日に発表者が現れないことがあった。こんなことをするのは、小学生でも気が引けるのではなかろうか。一般社会でそれをしたら、その瞬間に地位が消えてなくなるだろう。ゼミの教師が後日その学生に理由を聞いても、うつむいて黙っているだけであった。
 ある大学院ゼミ生は、学期の途中で突如としてゼミに出席しなくなり、指導教員が電子メールで問い合わせても返信がない。返事のない状態が数ヵ月間続いた後で、何食わぬ顔をして病気だったといって現れ平然としている。だが、メールの返信もできない重病で入院していたわけではなく、勉強以外の私的な理由で休んでいたことが、後になって指導教員に知られてしまった。指導教員をこれほど侮る態度があろうか。
 別の大学院生は、指導教員に内緒で他研究科の教員から何年間も指導を受け、それに基づいて書いた論文を博士論文にしたいので、その手続きに入ってほしいと、ある日突如として(正式の)指導教員に伝えてきた。博士論文の研究・執筆を始める際は、学生が論文プロポーザルを正式に行って、研究の対象や方法を指導教員らに説明しなければならないが、それさえしていなかったのだ。博士論文が書き上げられたら、指導教員が教授会にそれを提出して、数人の審査委員の審査を受け、最終的には教授会の投票によって可否が決められる(審査委員のなかに他研究科の教員が加わることも可能)。なぜ論文プロポーザルをしなかったのかと指導教員が質問すると、学生は黙ってしまった。指導教員を教授会の手続きのみに使おうとした非常に悪質な例だ。

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