平成29年12月5日 漢文教育は必要か

 ごく一部の専門家を除いて、日常生活や仕事において漢文を読むことはないのに、漢文教育は必要なのだろうか。現行の漢文教育の時間は他の教育に使うほうがよいのではないか。
この問題は、今まで真剣に議論されてこなかったように感じる。多くの教育は、行われないより行われたほうが好ましい。しかし地球上の知識はほとんど無限で、教育に使える時間は有限であることを考慮しなければならない。
 漢文教育には、学習者の語彙(漢語)を増やしたり、言語(一種の外国語)に対する関心を高めたり、文学的センスを高めたりする効果がある。しかし、そこで使われている古代の思想(論語など)には、納得できるものもあるが、今日の観点からすると批判の余地のあるものも少なくない。にもかかわらず、教室では質疑や討論も行われず、単に理解や暗記が要求されているはずだ。大学入試問題もそうした教育に沿って出題されている。さらに、千年以上も昔の隣国の思想や物語を習った日本人が、今日の隣国に誤ったイメージをもつ可能性もあろう。一部の日本人の隣国に対する異常な寛大さは漢文教育に起因していると推察される。
 そこで私は漢文教育に関して次のような提案をしたい。「代表的な漢詩100首を選び、漢文教育としては、それのみをすべての(普通科)高校生に教え、大学入試問題もそれのみを対象とする。」したがって、すべての漢文教科書は同じ100首を記載することになる。ただし、「漢詩100首」とは「五言絶句100首相当」という意味である。漢詩の芸術性は高く、現代人でも学ぶ価値が高いと私は信じる。
 こうした教育にはいくつかの利点がある(以下順不同)。第一に、複雑な漢文文法を習得する必要がない。そうした知識は現実社会で不要だ。第二に、大学入試受験生に過度のストレスを与えない。彼らは勇んで100首を暗記するだろう。第三に、代表的な漢詩が多くの日本人の共通な知識となることによって、その一部がさまざまな機会に引用されたり、感情や情景が共有されやすくなったりする。第四に、多くの漢語の習得も可能である。第五に、漢文教育の時間が少なくなって、他の教育にもっと多くの時間が使える。
 望むらくは漢詩の作り方も高校で教えてほしいと思う。漢詩には一定の形式があるので、辞書を使いながらそれに従って漢詩を作れるようになれば、多感な高校生なら作詩に挑戦するだろう。また、漢詩づくりを一生の趣味にすることもできるかもしれない。







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