経済学部は必要なのか(86) 努力と自己犠牲の精神


努力と自己犠牲の精神
日本の優れた歴史や文化は、先人の努力や自己犠牲の結果にほかならない。ある者は暗い明りの下で寝る間も惜しんで勉強し、ある者は粗末な食事で長時間働き、ある者は支配を企む敵と戦い命を捨てた。畳の上で死ぬことを恥と考えた者もいる。世界でも稀な日本の信頼文化(Casson, 1991)は、他人に利用されるのを覚悟で誠意を示した無数の人たちによって築かれた。日本には、奴隷を使った歴史も植民地で収奪をした歴史もない。こうして日本は非西欧諸国のなかで最初に近代化し、世界の植民地の廃絶に大きく貢献した。日本人は数世紀に一度ほどの世界史的偉業を成し遂げ、世界地図を塗り替えたのだ。
 これらの先人の事績に比して、今日の経済学部生の緩みきった生活は、なんとも恥ずかしくまた申し訳なく感じられる。将来彼らが世界史的な奇跡を起こすことはありえない。国際社会における今日の日本の地位を維持することも困難だ。猛勉強や世界観の再構築が必要である。
 そのために本評論は二重学位や二重専攻を推奨した。先人の苦労と比べると、ささやかな努力によって可能で、学ぶ楽しささえ味わえる。それらを促進するためには、企業や公的機関の給与制度に手を加えることも有効だろう。先述のごとくそれらには幾多の利点があるので、二重学位者の給与を二割増し、二重専攻者のそれを一割増しにしても、特に問題はない。これだけの差があれば、経済学部生も目の色を変えて勉強すると予想される。
 特に二重学位は日本の固定的な大学ピラミッドを崩し、多くの大学生に希望を与えるに違いない。二重学位を取得すれば、トップ大学の単一専攻者を上回る知識と能力があるとみなされよう(そのためにも給与増が望ましい)。すると、多くの大学生や大学人にも意欲が湧いてくるのではないか。日本の活力を削いでいる学歴社会の慣行は崩れ、組織に実力や人間力を重視する雰囲気がみなぎるはずだ。トップ大学やその学生ものんびりしていられないだろう。
 二重学位や二重専攻の価値を高めるには、成績評価の厳格化も必要である。ほとんど勉強もしないで単位が取得できてしまうようだと、それらの価値はほとんどない。先に論じた相対評価がこの問題を解決すると私は信じる。F(不可)の割合を現在よりずっと多くしてよいはずだ。
 給与に関して付言すると、組織内の地位による給与差はあまり大きくないほうがよい。もともと日本の組織文化は大きな格差を許容していなかったが、新自由主義の影響の下に格差は拡大された。社長と同一年齢の平均的社員との間に、二十倍以上の差がある企業も存在するようである。三倍以上の格差が必要なのかと私は疑問に思う(二倍以内でもよいくらいだ)。役職者は仕事内容や労働条件自体から大きな満足が得られるので、金銭的報酬はあまり高くなくてもよいのだ。
 指導者が就くべき地位の金銭的報酬を高くしすぎると、金銭的利益を目的とする個人がその地位を狙うようになろう。本評論が強調してきたように、優れた指導者の使命は、自己利益を犠牲にして組織や社会を繁栄させることだ。高すぎる報酬をともなう地位は、自己犠牲ではなく自己利益を重視する人間を引きつける。日本の組織には結託して悪をなすことが多く見られるので、自己犠牲を承知でそれに立ち向かえる指導者の出現も望みたい。

Casson, Mark. The Economics of Business Culture. Oxford University Press: Oxford, 1991.

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