NHKの受信料制度はどうあるべきか


 2019823日に、以下のような文章を日本経済新聞の経済教室欄用に投稿したら、掲載を拒否されました。今後NHKの受信料制度に関する議論がわが国で高まると予想され、今まで無言だった日本経済新聞も何らかの見解を表明せざるをえなくなると推察されます。以下の文章は経済理論的に正当だと考えられるので、NHKの受信料制度に関する日本経済新聞の今後の論理展開に注目していきたいと思います。なお2年余り前には、大学教育費の卒業後所得に応じた負担に関する私の文章が掲載拒否され、その後似た内容の他者の評論が掲載されたことがありました。

NHKの受信料制度はどうあるべきか
現在、NHKの受信料制度に不満を抱いている人たちがきわめて多い。深刻なトラブルの発生も多いようだ。その原因は、NHKの番組を見ないテレビ受信機所有者でも支払わされる高額受信料にある。われわれの経済は基本的に受益者負担原則によって成り立つ。消費者がスーパーで購入する肉や野菜の代金の支払いに不満を抱かないのは、その消費によって自ら利益を得るからだ。現行のNHKの受信料制度はこの受益者負担原則から大きく乖離しているため、それに対する不満は正当といえる。
当然ながら、NHKの番組を見ないのは、それが他の機会と比べて面白く感じられないためでもあろう。今日はNHKがテレビ放送を開始した当時とまったく事情が異なっていて、多数のテレビ・チャンネルだけでなく、無数のユーチューブ動画や有料配信される映像や音楽も楽しむことが可能だ。テレビ放送開始当時の理念でNHKを運営すると問題を引き起こす。
それでは、なぜ現行のような受信料制度が存在してきたのか。理由はテレビ電波の持つ特殊な性質にある。テレビ放送は肉や野菜と違って、排除不可能性という性質を持つ(正確には「持っていた」というべきだが、この点に関しては後に論じる)。
特定の肉や野菜は、その代金を支払った個人のみが消費可能だ。換言すれば、代金を支払わない個人の消費を排除できる。排除可能性が成立するのだ。
それに対して、テレビ放送はいったん放送電波が供給されると、受信料を支払わない個人も受信可能になる。つまり、受信料を支払わない個人の消費を排除できない。これが排除不可能性である。この性質があるため、テレビ放送は受信料の支払いを強制しないと供給できない可能性が生じるのだ。NHKの現行の受信料制度は、これが存在理由になっているといえよう。
一言でいえば、テレビ放送は公共財とみなせる。一般に、排除不可能性の性質を有する財は公共財と呼ばれ、税収を基に政府によって供給されるものが多い。国防や一般道路はその例である。そうした公共財の場合、肉や野菜と違って、個人は利益を享受するたびごとに料金を支払うわけではない。今日のNHK受信料が税金に近い性質を有するのは、放送電波に公共財の性質があるためだ。
しかし直ちに気づくように、民放は公共財である放送電波を供給しているにもかかわらず、受信料を徴収していない。広告収入によって放送の費用を賄うことができるからだ。そのため、テレビ放送の供給においてNHKのように強制性の高い受信料制度を設定するのは、一つの方法にすぎないといえる。
このような事情があるので、NHKの受信料問題を解決する方法として、経済理論的にまず考えられるのは、NHKを民放にすることだ。国鉄の民営化に近いだろう。これは現実的にきわめて大きな改革だが、経済理論的な正当性は高い。民放にする際は、最初に入札などで組織全体を私企業に売却し、売却益を国民に還元する必要がある。その後は、広告収入などによって放送を継続することになろう。この場合、当然ながら公共放送としての制約からは解放される。
広告収入によって放送することは一つの方法だが、今日ではそうしない経営も技術的に可能になっている。受信料を支払う者のみにテレビ放送を提供する技術が開発されたからだ。スクランブル放送はその例である。かつては排除不可能性の性質を有した放送電波が、技術革新によって今日では排除可能性の性質を獲得しているのだ。
スクランブル放送などの有料放送においても、いくつかの異なった受信料支払い制度が考えられる。経済学的に最善なのは、番組ごとに料金を設定し、視聴した番組に応じて支払う制度だ。それが不可能ならば、次善の策として視聴時間に応じて支払う制度が考えられる。いずれも不可能な場合は固定料金制ということになろう。今日話題になっているスクランブル放送では、固定料金制が想定されているようだ。
NHKの受信料問題を解決するもう一つの方法は私の推すもので、NHKを「純粋公共放送」にすることである。「純粋」という修飾語を付けたのは、すぐ後で述べる理由により、今日のNHKが真の意味の公共放送といえないからだ。純粋公共放送は税金またはそれに近いもの(以下では税金と呼ぶ)によって運営されることになる。つまり、NHK放送をまったく見ない個人も、放送費用を分担しなければならない。
税金で提供される純粋公共放送は、次のような厳しい条件を満たす必要がある。すなわち、民放その他の媒体で提供可能な内容を放送してはならない。ドラマや歌謡ショーやプロ野球は民放でも放送可能なので、純粋公共放送で提供する根拠に欠ける。現在のNHKが力を入れている天気予報も同様だ。災害などに関する緊急情報さえ純粋公共放送が提供しなければならない根拠は弱い。その他多くの現在のNHK番組も純粋公共放送に相応しくないだろう。この意味で現状のNHKは真の意味の公共放送といえないのである。
ならば、純粋公共放送はどんな番組を放送すべきだろうか。NHKが強調する生活の基本情報の番組も必要だろうが、私はここで科学・歴史・芸術・海外事情などに関する上質な教養番組の必要性を強調したい。ときどきNHKで放送されるBBCの番組がそのイメージに近く、少数ながら現在のNHKにもそのような番組がある。それ以上に上質な番組であれば、さらに好ましい。それらは国民を啓蒙し、その知識や能力や品性を高める番組である。こうした番組の製作は広告収入で採算を合わせるのが困難なので、普通は純粋公共放送でなければ提供不可能だろう。
歴史・芸術・海外事情などに関する番組は、主観を完全に除くことが不可能な場合もあるかもしれない。そのため純粋公共放送としては、可能な限り客観的な内容を目指すだけでなく、異なる見解が存在する場合に、主要なものを同時に紹介する必要があろう。さらに、日本を世界で称賛される国にしようという精神が、番組製作の際に必要である。
こうした条件を満たす純粋公共放送は、一つのチャンネルによる放送で十分だ。現在のNHKの余分な部分は私企業に売却され、前述の第一の方法で運営される必要がある。その結果、予算は現在のNHKのものよりずっと少なくてすむ。一家計当りの費用負担額が月三百円ほどであれば、純粋公共放送の存在が支持されやすいであろう。高くても月五百円程度にするのが好ましい。上質番組が低費用で提供されれば、公共放送の支持者は多くなるであろう。
しかしながら、こうした公共放送の番組さえ見たくない人たちもいるに違いない。そのような人たちにも、税金として費用負担を強制する根拠は何か。大学教育や科学研究や宇宙探査などが税金で支援されるのと同じである。例えば、日本の宇宙探査事業を支持しない人たちも、税金でその費用を負担しているのが現状だ。指導的国民が文化的に優れていると考える事業には、税金を投入して輝かしい社会を実現するのである。純粋公共放送に税金を投入して、国民の知識や能力や品性を高めるのだ。それが文化であり、一国の方針が文化的な影響を受けることは回避されるべきでない。
多額の税金が投入された番組の映像を、一回の放映でお払い箱にすることは資源の浪費である。見逃す人も多いので、過去二十年ほどの番組は各自の望むときに見ることができるようにすべきだ。また上質な映像ならば海外で販売することも可能なので、そのようにして収入の足しにすべきである。
純粋公共放送に関しては、次のような条件を満たすことも必要だろう。放送内容に関して視聴者の意見を聞くことである。放送内容を多数決で決めるということではなく、一定の文化的基準を満たす意見を参考にすべきなのだ。どのような意見が出されているかを全国民に知らせることも必要である。今日のNHKにはこれが欠けているといえよう。NHK職員の現在の給与が高すぎるという批判も強い。税金で支えられる場合は公務員並みにしないと、純粋公共放送に対する支持が得られないだろう。また職員の採用には専門的で公正な試験が必要になる。





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