経済学部は必要なのか(83) 優れた講義と授業評価の条件


優れた講義と授業評価の条件
 現在、ほとんどの大学で学生による授業評価が実施されているはずだ。そこで、経済学部の講義をイメージしながら、優れた講義と授業評価の好ましい方法に関して、私の意見を述べてみたい。
 優れた講義が満たすべき最も重要な条件は、内容が体系的なことである。体系的知識の重要性はここまでにも指摘した。教員が関心をもつ狭い知識を教えたり、自身が研究中のトピックを話したりするのは、きわめて悪質な手抜き講義だ。現代社会の知識は膨大であるため、こうした手抜き講義では学生の知識や関心が増大しない。
 教科書が使われることも重要な条件だ。教科書には特定分野に関する体系的な知識が記されているので、教科書を十分に使って講義すれば右の条件も満たす。今日では多くの教科書が刊行されているため、大学院を含むほぼすべての科目で教科書を使うべきだ。教科書があれば学生が予習復習を十分にして、講義中に質問や討議を活発に行える。教員は担当科目の教科書が完璧に理解でき、望むらくは自分で教科書が執筆できるほどの知識をもっているべきだろう。
 次に、優れた講義を生み出す目的でなされている授業評価について考えてみたい。現行の制度では、次のような方法で評価が行われる場合が多いであろう。すなわち、「この授業の受講はあなたにとって意義のあるものでしたか?」「教員の説明の仕方は分かりやすかったですか?」「授業に対する教員の熱意を感じましたか?」といった質問に、学生が五段階で回答する。
しかし、これらの質問は評価基準が不明確で、いずれも不適切だ。「あなたにとって意義がある」や「分かりやすかった」や「熱意を感じました」は、すべて主観的な判断で、教員が「そんなはずがない」と反論しようと思っても不可能である。教員が学生の将来を考え最善を尽くして講義しても、怠け学生が「こんな講義に意義が見いだせない」と感じれば低い評価になろう。また、こうした質問に対する回答では、具体的にどう授業を改善すべきかが明らかでない。
そもそも将来にならなければ実感できない「意義」を、学生時代に評価することなど無理である。将来に意義が実感されると予想して、大学は各科目を開講しているのではないか。こうした不合理なことが、真理探究を標榜する大学という場で問題とされることなく広く行われている。怠け学生のいい加減な評価が、講義に対する教師の熱い意気込みを破壊してしまう。
それではどのような質問が適切なのか。「講義は教科書のあらかじめ指定された部分をすべて議論しましたか?」「教員は学生の質問に答えましたか?」「教員は当該分野の未解明の問題について話しましたか?」というような質問であれば、怠け学生が不適切な回答をしても、教員は反論できるし、他の学生の回答を見ればその反論の正否を第三者が判定できよう。
近い将来、授業評価の結果が教員の給与や昇進に影響するようになる可能性が生じている。しかし、知識不十分な学生には「消費者主権原則」が適用できないので、その結果は参考程度にすべきだ(荒井、二〇〇四)。そもそもほとんど講義に出席しない学生に授業評価をさせるのは不合理であり、授業中にまったく質問しないのに「分かりにくい」と評価するのは非常識である。海外には平均以上の成績を挙げた履修者の回答のみを評価に使っている大学もあるようだ。
 授業評価では「教員の声が聞こえにくい」などの感想も出される。こんなことは二回目の講義のときまでに学生が教員に伝えるべきで、学期が終了してから伝えても意味がない。また、学期の終了時ではなく、それが三分の一ほど進んだ段階で授業評価を行えば、教員がそれを考慮して講義法を修正したり、学生の苦情に答えたりすることが可能だ。さらに、授業評価は三年に一回ほどで十分で、資金不足を嘆く大学が大金をかけて毎年全科目で行うのは無駄である。

荒井一博『脱・虚構の教育改革』日本評論社、二〇〇四年。

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http://araikazuhiro.world.coocan.jp/





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