経済学部は必要なのか(81) 広い知識を重視する教育


エピローグ 日本の教育に求められること
広い知識を重視する教育
 本評論は経済学部の問題を中心に論じてきたが、議論は多岐にわたった。このエピローグでは、ここまでに十分論じられなかった重要な点を数個取り上げ、できるだけ日本の教育全般に話を広げながら補足して、本評論を締めくくりたい。
本評論の主張の一つは、バランスのとれた広い知識の習得が学部教育で重要だということである。狭い分野や問題を扱う教育は大学院で行うべきだ。
この点が認識されれば、わが国の大学入試の異常さが理解できよう。多くの私大では三科目以下に限定した試験が行われている。国立大学の入試科目も多くない。そのため、受験者のほとんどが少数科目に集中した勉強をして、合格確率を高めようとする。学部教育どころか高校教育においてさえ、バランスのとれた知識が習得されていないのだ。少数科目入試では、教科書の勉強だけで解けない難問も多くなる。他方、入試多様化は基礎学力のない学生を増大させた。
個々の大学が受験者数を最大化するように入試方法を決めることは国益に反する。それは、入学者を多くするために教育内容を薄くして卒業を平易にするのと同じだ。一国全体の基本的教育方針を決めてから、そのための入試方法を国全体として考案する必要がある。
 バランスのとれた広い知識の習得を目標にするならば、大学入試は高校課程の全科目を出題範囲にすべきだ(荒井、二〇〇七)。そして、教科書を理解していれば解ける問題を出題する必要がある。科目数が増えても全受験生が同一条件なので、特に問題は起こりえない。理社科目は個別科目ごとの全国テストを行い、低学年で部分的に受験可能にすることもできよう。
 今日の受験競争では私立校や受験産業の果たす役割が大きく、親が富裕でなければ有利な教育は受けられない。これが社会階層の固定化の一因となり、潜在能力のある個人の活用を不十分にして経済の活力を削いでいる。また、少子化は日本社会の最重要問題の一つであるが、こうした高い教育費がその一因であることは明らかだ。高校全教科の教科書の理解だけで希望大学に合格できる入試を行えば、受験産業の高額教育サービスは不要になる。それが家計を救い少子化対策となり、優秀な人材の輩出を可能にして、日本を豊かにするのだ。
 そのためには、まず参考書や問題集を必要としない内容で、説明の豊富な教科書を作成すべきだ。価格は上がろうが、参考書や問題集の購入が不要になれば、書籍代の総額は格段に少なくなる。そうした教科書は、高校生が容易に予習できるよう記述されているべきだ。数学の教科書は、説明が十分になされていて興味深いものでなければならない。古文や漢文の教科書も予習してほぼ理解できるようにすべきだ。項目だけを羅列したような社会科の教科書は大きな改善が必要である。何回読んでも楽しいといえる教科書を日本の若者に与えたい。
 今日は情報機器やソフトが発達し廉価になっているので、それを最大限に活用した教科書や教材の開発も望まれる。地歴では文字だけでなく映像を使った説明が、正確な情報を伝えて好奇心を高め、記憶を確実にするだろう。理科でも教室で目にできないものの映像を使うことができる。数学では、多様な関数の映像や映像化された興味深い問題を見ることができれば、数学の好きな生徒が倍増するだろう。もちろん英語では英米人が教科書を朗読するのを聞けるようにすべきであるし、古文や漢文でも専門家がどう朗読するのかを聴かせることができる。
説明の詳しい教科書が作成されれば、教師の説明の時間を少なくでき、余った時間は質問やディスカッションなどに使って、若者の討論の技能を高めることも可能だ。さらに授業時間の短縮を私は提唱したい。一般労働者の労働時間に匹敵しそうな現在の高校の授業時間を削減して、生徒が自分で勉強できる時間を増やすべきだ、というのが私の以前からの主張だ(荒井、二〇〇七)。

荒井一博『学歴社会の法則 - 教育を経済学から見直す』光文社新書、二〇〇七年。

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荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 




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