経済学部は必要なのか(80) 多分野の知識のネットワーク


多分野の知識のネットワーク
 二重学位や二重専攻は広い視野を提供するため、教養教育とかなり似た効果も有する。文系と理系の分野の専攻も当然可能だ。ここでは、人類全体の知を統合する上で、現実の教養教育やリベラルアーツ教育を凌駕する効果があることを指摘しておきたい。多分野で知の爆発が起きている今日の科学に、この効果は好ましい影響を与えると信じる。
第一章で引用したように、ミル(二〇一一)やオルテガ(一九九六)は、異分野を総合する力の育成としての教養教育を唱えた。それにならって、南原(二〇〇七)は「すでに知られている知識を各分野、さらには全体にわたって総合し組織化」する一般教養教育の重要性を説いている。だが、各分野で膨大な知識が蓄積されている今日の世界において、一個人ないしは一研究者が右のような知識の総合化や組織化を行うことはきわめて困難だ。
 二重学位や二重専攻は、意外なメカニズムによって、この困難を克服する可能性が高い、と私は考える。国の内外で多数の人たちが、多様な組み合わせで複数分野を体系的に学び、複数分野にまたがる思考を深めれば、各分野の知識の間に、自ずとネットワークが形成されるようになるからだ。以下でこの点を敷衍しよう。
個人Aは経済学と生物学を学び、個人Bは生物学と物理学を学び、個人Cは物理学と社会学を学び、個人Dは社会学と経済学を学ぶというようなことが、人類の保有する知の分野全体のなかで、大規模かつ多重に生起するのだ。日本の各年齢層の十万人が二重学位または二重専攻を選択し、そのうちの一割が研究者になれば、いずれは何十万人かの日本人研究者が、複数分野の知識に基づいて研究を行うことになろう。世界では何百万人という規模だ。
たとえば、ある者は生物学の知識をもちながら経済学の研究をするか、両分野の学際的研究をすることが生起する。しかも、これと同様な研究者は、国内や世界全体で、少なくない人数に達しよう。そのため、生物学と矛盾しない経済学が形成されたり、生物学の命題に触発された経済学の研究が行われたりする。似たことは全分野間で生起するであろう。すると、現存する全分野の知がネットワークを形成し互いに影響しあって、矛盾のない知に統合されていく。
そうであれば、個々の研究者が全分野の知識を吸収して、個人的に統合努力をする必要性は大きく低下する(もちろん、一部の個人が三分野以上の知識を習得することは、個人的な研究や知の統合にいっそう寄与するかもしれない)。かくして、個人が(実質不可能な)知の総合化や組織化を図らずとも、世界の知は自ずと統合されるのだ。すると特定の現実問題の解決法に関して、異分野間で意見の相違が生じる可能性は限りなく小さくなろう。各人が一分野しか専攻しなければ、こうしたネットワークは絶対に形成されない。これは二重学位や二重専攻の八番目の便益といえる。
特定の地域の人たちが同一言語の体系(文法・語彙など)を共有するのは、その人たちの間にネットワークが形成されているからだ。各人がその地域の全住民を知っていたり、彼らと意思疎通したりするからではない。それと同様に、多数の分野の知の間にネットワークが形成されると、矛盾のない知の体系が全研究者ないしは全人類で共有されることになるのである。

オルテガ・イ・ガセット『大学の使命』(井上正訳)玉川大学出版部、一九九六年。
南原繁『新装版 文化と国家』東京大学出版会、二〇〇七年。
ミル、ジョン・スチュアート『大学教育について』(竹内一誠訳)岩波文庫、二〇一一年。

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