経済学部は必要なのか(78) 経済学における数学のあり方


経済学における数学のあり方
 右では経済学と数学の二重学位や二重専攻に触れなかったが、これは問題のある組み合わせでもある。まず、経済学を理解したり経済学の論文を書いたりするためには、現時点でこの組み合わせがベストだといえよう。実際のところ、この二分野を専攻してノーベル賞を受賞した経済学者が何人かいる。
しかし、経済学にとって数学はあくまで表現手段にすぎない。そして、数学の適用は経済学の中にある狭い思考を極端に推し進め、既存の経済学以上に視野を狭める危険をともなう。市場に対する個人の影響力は無視しうるという経済学の考え方を、高等数学の測度論の適用によって極限まで推し進めたHildenbrand (1974)の理論がその一例である。こうなると、経済理論が現実からますます遠のく。
経済学史を俯瞰すれば、数学の適用の進行によって、経済学の人間観は極限まで単純化されてきたことが理解されよう。経済学の祖であるアダム・スミスには、「公平な観察者」などの概念を導入した道徳論と人間観があった。だが、数学的な表現がある程度完成した新古典派経済学では、法を犯さないかぎり何をするのも自由だという人間観に変質する。最近ではさらに進化して、青木・奥野(一九九六)に見られるように、うまく行っている他者を模倣する、という人間観も現れた。法を犯して利益を上げている他者がいれば、それを模倣することになろう。
数学者が経済問題を分析する際は、既存の数学を使って分析できそうな面白い問題にまず注目し、その計算結果を論文にする場合が多いと推察される。論文の発想段階にまず数学があるのだ。しかし経済学の研究者は、経済的視点から発想するのが基本であるべきだろう。たとえば、今日の経済的格差や低成長に関する問題意識が最初にあって、そのなかの特定の問題を考察する過程で数学を使用するという態度が必要と考えられる。
数学には物理学と歩調を合わせて発展してきた時期があった。ならば数学者や数理経済学者に、右のような問題意識を体験しながら、社会科学に適した数学を開発するよう要望したい。労働に関する簡単な例を取り上げてみよう。労働に対する現実の人間の感じ方は複雑で、今日の経済学で仮定されているような単なる苦痛の源泉ではない。特に日本人の場合はそうだ。労働すれば苦痛や苦労や面倒くささを感じるが、(何もしない場合よりは)充実した時間を過ごせ、達成感を抱けて、肉体的・精神的な健康にもよい。苦労が大きいほど達成感も大きい。今日の数理経済学は、こうした心理を数学的に表現して、体系を作り上げることができないのである。
経済学が数学的厳密性を追求し、それによって実証性と体系性を高めようとするのであれば、このように複雑な現象も数学的に表現する方法を開発しなければならない。なぜなら、日本人は実際にそのように感じており、そうした実感を基に労働を供給しているからだ。働きたい高齢者は日本にきわめて多い。わが国の数理経済学者には、人間特に日本人の精神を深く分析した上で研究する姿勢が必要だろう。

青木昌彦・奥野正寛(編著)『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会、一九九六年。
Hildenbrand, Werner, Core and Equilibria of a Large Economy, Princeton University Press, 1974.

コメントをどうぞ

荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 



コメント

このブログの人気の投稿

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

Twitter:過去のツイートの整理 (2) 2018年(b)

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話