経済学部は必要なのか(51) 多様な文化を破壊する経済学


多様な文化を破壊する経済学
幹事会声明は、「現在の人間と社会のあり方を相対化し批判的に省察する、人文・社会科学の独自の役割」を重視する。しかし、再度強調すると、基本的に新古典派経済学は、最大限の自由が享受できる社会を最良と見なすにすぎないのだ。それは自由の束縛に対する批判を内包するのみで、それ以外の批判精神を醸成しない。同経済学には、どのような人間が望まれるのかという通常の意味の人間観が欠けている(私利追求をともなう個人合理性は必要)。そのため、そこには人格の陶冶という思想が見られない。
新古典派経済学は、経済社会の問題に対して市場メカニズムによる解決を推奨する。しかし、現実の経済社会は市場のみで構成されていない。組織や家庭や学校などもある。
それだけでなく、現在の市場には将来世代が参加できないので、環境問題や生物多様性などの多世代に関係する重要問題の解決法を、市場は広い視野から生み出せない。将来世代に影響する法・慣行・教育・文化の決定や維持に関しても同様である。将来のために今日の世代がすべきことを、同経済学は合理的に説明できないのだ。祖先がわれわれのために惜しまなかった努力や苦労の結果を認識し、彼らに感謝するとともに後の世代に伝えてゆく、という思想も同経済学には見られない。世代間倫理の思想が欠如している、とも言い換えられる。
グローバル人材の養成と関連して、同声明は「人類の多様な文化や歴史を踏まえ、宗教や民族の違いなど文化的多様性を尊重しつつ、広く世界の人びとと交わり貢献することができるような人材」の育成を提唱していた。だが、経済学教育とこれほど隔たった考えはない。そもそも新古典派経済学には文化や歴史(の多様性)という概念がないため、そこから「広く世界の人びとと交わり貢献する」方法を学ぶことは不可能である。
経済学を学んだことのない人たちは驚くかもしれないが、新古典派経済学や新自由主義が主張するのは、「文化的多様性の尊重」ではなく、「文化的多様性の破壊」にほかならない。あるいは、「自由」や「開放性」などの深みに欠ける米国的文化一色で世界を塗りつぶすことである。新自由主義にとって、多様な文化は自由の抑圧要因であり、国家間の文化・言語的な相違は、資本や人材の円滑な移動を妨げる障壁にすぎない。
付言すれば、新自由主義や新古典派経済学と同様に、世界的普遍性を過度に強調する思考は、特定の価値による世界支配を目論んでいるとみなしうる。その背後に宗教的野望が隠れていることも少なくない。本評論で論じた大学論や教育論でも同じことがいえる。
以上から明らかなように、大学生が経済学を学んでも、幹事会声明が説く知識や能力は身につかない。声明の謳い文句を基準にすると、現状の経済学に深刻な欠陥があることは、火を見るよりも明らかだ。現在の経済学部に社会的な必要性が見られないことを、声明自体が間接的に証明しているといえよう。経済学教育には利益がないどころか、むしろそれの生み出す大きな害悪が目につく。その教育は抜本的に考え直さなければならない。

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