経済学部は必要なのか(50) 総合的な知と無縁の経済学


総合的な知と無縁の経済学
わが国で一九九〇年代(英米では八〇年代)以降に本格的な広がりを見せた新自由主義は、新古典派経済学を基礎にした政治経済的実践の思想である。それは「厚生経済学の第一命題」を根拠にして自由の拡大を目指し、規制緩和や民営化や市場開放を推進した。ただし、新古典派経済学がアトムのような経済主体を想定しているのに対し、新自由主義は米国などの巨大グローバル企業に有利な政策を推進してきたといえよう。もちろん、表立ってはそのような目的を表明しない。一般に現実の自由主義は、新古典派経済学の想定に反して、大企業の存在に寛容である。
新自由主義の影響は経済や経営だけでなく、学校教育や家庭生活や人間関係一般にまで及ぶ。自由だけが重視され、長い歴史のなかで日本人が尊重してきた価値は、無意味あるいは自由化の障害として破棄された。日本における新自由主義の蔓延は「第二の敗戦」ともいえる。多くの日本人が日本は異様な社会に突入しつつあると感じ、不安を抱くようになった。
しかし、経済理論家で新自由主義に反対した者はほとんどいない。彼らがどんな教育を受けたのかと一般人は疑問に思うだろう。簡単にいえば、今日の経済学部の教えている「生き方」は、「法の許す範囲内で私利を追求して自由に生きよ」ということだけである。それを超えた生き方の哲学はまず教えられない。ほとんどの経済理論家はそうした考えの経済学に基づいて論文を書いているので、新自由主義に反対を表明できないし、そうする気もないようだ。他方、新古典派経済学は個人の独立性を前提としているが、日本の多くの経済学教師は派閥主義的で、それを順守する者が少ないことは、先に指摘した通りである。学生も同様であろう。
プロローグなどで検討した日本学術会議幹事会声明は、今日的課題の解決のために、「自然科学と人文・社会科学の連携」が必要なことを強調していた。「自然・人間・社会に関して深くバランスの取れた知」とも表現されている。しかし、自由のみを尊重する新古典派経済学は、個人が積極的に視野を広くすべきであるという思想をもたいない。各人の自由が尊重されるか否かのみが重要で、各人の視野の広さは問題にされないのだ。同経済学では、最大限の自由の保障された視野の狭い人間の社会のほうが、多少規制された視野の広い人間の社会より優れているとみなされる。前者の社会は効率的で後者は非効率的とみなすのが、厚生経済学の第一命題だ。
伝統的に経済学(特に新古典派経済学)は、学問的な独立性を堅持し、理論面で他分野から侵害されなかったという「誇らしい歴史」を有する。当然ながら、自然・人文科学や他の社会科学との融合も、経済学の根幹部分では生起していない。自己完結した学問を貫いてきたのだ。
行動経済学の発展とともに、最近は心理学などとの学際研究もなされつつあるが、現段階では非合理的行動などの個別事例の収集が主で、まだそこから体系的理論は形成されていない。新古典派経済学に匹敵する体系化は当分困難でもあろう。こうしたことを考慮すると、物理学などと違って、経済学には人間を心の底から唸らせる理論がないといえよう。
 新古典派経済学や新自由主義は自由という価値のみを尊重するという、きわめて灰汁の強いイデオロギーを内包している。社会の成員が広い知識を有すること、勤勉であること、そして他者に対して配慮することよりも、彼らが自由であることを好ましいとみなす。このような経済学からは、日本や世界のために献身しようとする人間が育たない。

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