経済学部は必要なのか(49) 新古典派経済学の宗教的機能


新古典派経済学の宗教的機能
「競争均衡はパレート最適である」というのが、新古典派経済学のもう一つの重要な主張である。「パレート最適」とは、ある消費者の満足度を上げると、少なくとも一人の他の消費者の満足度を下げざるをえない状態にほかならない。ここで「状態」は各消費者の各財の消費量を表す。
パレート最適な状態では、たとえばリンゴ好きな消費者Aの満足度を上げるために、彼のリンゴ消費量を多くすると、リンゴ好きな消費者Bのリンゴ消費量を少なくする必要がある。Bがリンゴを好まないのに数個所有している状態はパレート最適といえない。BのリンゴをAに与えることによって、Bの満足度を下げずにAの満足度を上げられるからだ。
このように、パレート最適な資源配分は、経済主体間で財のやり取りをしても、満足度を高められない(資源配分を改善できない)一種の極限状態を表しており、「効率的な資源配分」ともいわれる。この「効率的」や「効率性」の定義は、国語辞典や英語辞典のそれとも、マス・メディアで普通に使われる場合の意味とも異なることに十分注意すべきだ。
この第二の主張は新古典派経済学の最も重要な命題で、「厚生経済学の第一命題」と呼ばれる。これこそが自由主義を経済学的に正当化する命題にほかならない。今日の世界を支配する思想は自由主義であるが、ただ単に「自由はいいことだ」と唱えても説得力に欠けよう。それに対してこの命題は、自由がなぜよいのかを論理的に説いている。「各経済主体が自己利益を追求して自由に行動すれば、社会的に好ましい状態に到達できる」とそれは主張しているからだ。
新古典派経済学では、各消費者と各企業が所与の市場価格の下で、私利のみを追求して行動する。それらは経済全体どころか、周囲の人にさえ配慮しない完全なエゴイストだ。にもかかわらず、経済では一種の好ましい状態(効率的な資源配分)が実現する。各自が自己利益ばかりを追求していると、社会は混乱状態になりそうに思われるかもしれない。しかし、そうではなくパレート最適という好ましい状態に到達する、というのが厚生経済学の第一命題の意味である。
これは驚くべき命題といえるかもしれない。なぜなら、社会全体のことをまったく考慮しないエゴイストの行動が、社会全体にとって好ましい状態を生み出す、と主張しているからだ。世界の経済学界で神のように見なされた経済学者のケネス・アローも、フランク・ハーンとの古典的な共著で、経済学を知らない人にとって、この命題がいかに驚くべきものであるかを理解することが重要だと述べている (Arrow and Hahn, 1971)。真の命題とは、このように予想外の結論を有するものだという経済学者が多い。
これは恐ろしい命題でもある。なぜなら、他者に対する配慮や利他的行動や自己犠牲は無意味である、と主張しているようにも解釈できるからだ。それどころか、そうした倫理的行動はかえって非効率性の原因になるとみなされる恐れもある。これを根拠に、「社会のためになることをしたいという人が、いちばん社会のためにならない」とまで主張されるかもしれない。
自由を最も重要な価値だと考える人たちにとって、この命題は何と心地よいことか。莫大な利益をあげる企業の所有者や経営者にとっても同様だろう。私利追求が咎められるどころか、社会的に好ましい状態を達成するのに貢献していると、逆に激励されるからだ。新古典派経済学には、彼らを励ましたり癒したりする宗教の要素がある。一般に思想や宗教は何かを正当化するために考案されるが、新古典派経済学は最大限の自由を正当化するために考案された思想にほかならない。

Arrow, Kenneth, and Hahn, Frank. General Competitive Analysis, San Francisco, Holden-Day, 1971.

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