経済学部は必要なのか(48) 新古典派経済学の概要


新古典派経済学の概要
 このようにみてくると、今日の経済学の大黒柱はミクロ経済学(新古典派経済学)といえよう。実際、ミクロ経済学は、「科学」であるための必要条件の一つといえる「体系性」を、最も強く満たしている経済学なのだ。そこで本章では、経済学部教育の過半を占める新古典派経済学の社会的有用性を検討してみたい。同経済学は、一九世紀後半にレオン・ワルラスによって基本的な構造が築かれた学問である。
 話を進める前にゲーム論にも触れておきたい。ゲーム論も個人を分析の基本単位とする点で新古典派経済学と似ているが、個人間の相互依存性を重視する点などでは原理を異にする。経済学におけるゲーム論の重要性は一九八〇年代に大きくなり、今日の大学院教育では、新古典派経済学とゲーム論の重要性の比が、およそ七対三から六対四ほどといえよう(学部教育では新古典派経済学の重要性がもっと大きい)。ただ、以下でみるように、新古典派経済学が明確な主張をもつ学問であるのに対して、ゲーム論は分析手法に近く、その体系全体としては特定の明確な主張を有しない。こうした理由のため、以下ではゲーム論にあまり触れないことにする。
新古典派経済学の有用性を検討するには、その概略を知っているほうがよい。経済学を勉強したことのない読者のために、それを簡潔にまとめておくことにする。エッセンスは単純だ。
同経済学では、多数の消費者と企業の存在する経済が想定される。それらの数に特に下限はないが、一経済主体が取引量を増減したくらいでは、財の市場価格が変化しないと思われるほど多い。市場全体と比べて個々の消費者や企業は小さく、「アトム」とみなされているのだ。
各消費者は、それが有する資源(労働など)を市場に供給した収入などを使って、消費財を需要購入し消費する。その際、直面する価格体系と予算制約の下で満足度を最大化するように、資源供給量と各消費財の需要量を選ぶ。各企業は、直面する価格体系の下でそれが有する技術を制約として利潤を最大化するように、各種投入物の需要量と生産物の供給量を決める。最大化をともなうこれらの行動を「最適化行動」と呼ぶ。新古典派経済学の第一の特徴は、各経済主体が最適化行動をとることだ。
 このようにして、すべての市場の特定の価格体系の下で、各財に対する各消費者と各企業の需要量と供給量が決まれば、各財の市場における需要量の合計と供給量の合計も決まる。もし前者が後者よりも多ければ、超過需要ということになって、その財の価格は上がるはずだ。逆ならば超過供給で下がるだろう。かくして、すべての市場で両者が等しくなるように価格が調整されると考えられる。この「需給均衡」が新古典派経済学の第二の特徴にほかならない。
すべて市場の需給が等しくなった状態(と市場価格)は「競争均衡」と呼ばれる。前世紀の半ばから二十年ほどの間に、ある程度一般的なモデルにおいて、競争均衡の存在を証明する研究が高等数学を駆使してなされ、ドゥブリューなどの数理経済学者がその業績によってノーベル経済学賞を受賞した(Debreu, 1959)。ワルラスのモデルは数学的な不完全性などの欠陥を有していたが、一世紀ほどを経て完成度が高められたのである(ちなみに、仏典の多くが釈迦入滅の数世紀後に完成した理由をこれより類推できよう)。「各経済主体の私利追求行動は市場で調整されて均衡が生起する」というのが、新古典派経済学の重要な主張の一つだ。

Debreu, Gerard. Theory of Value. Wiley: New York, 1959.

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