経済学部は必要なのか(35) 日本人の公共心の変貌


日本人の公共心の変貌
たしかに日本は、誠実・正直・遠慮・優しさ・思いやりの文化を発達させたが、この文化は過去二百年ほどの間に大きく変貌している。一部の経済史家によると、すでに江戸時代末期に個人主義の傾向が現れ始めた。当然ながら、明治維新は西洋化を、先の敗戦は米国化を促進して、日本社会の個人主義の度合いを強めたはずである。高度経済成長による物的繁栄は、他者に依存しない生き方を受け入れやすくしたといえよう。
そしてついに一九九〇年代初期ごろから、極端な個人主義である新自由主義が日本社会も支配するようになり、日本文化の力は大きく減退した。物的豊かさの増大とともに人間は自由度の拡大を求めるであろうが、今日の日本は無秩序な自由によってその文化の神髄を失いつつある。最近の日本人の人相が変わったという人が少なくない。先の戦争の直後やそれ以前の日本は今日よりもずっと貧しかったが、当時の写真に見られる子供の笑顔のなんと明るいことか。
 日本のエリートに対する内外の評価は必ずしも高くない。早くも明治時代に、平均的な日本人は優秀であるものの指導者は凡庸だという世界の評価があり、今日までほぼ同様な評価が続いているようだ。日産自動車のゴーン社長も同様な評価をしていたらしい。だが、かつての日本のエリートは、今日とは比較にならないほど強い日本精神や公共心を内面化していたと思われる。江戸時代の士族は名誉を重んじ清貧に甘んじたし、明治の将校には自分の命に未練を示す者が少なかった。彼らは藩や国の利益を第一に考えたのだ。しかし、昭和の軍隊では明らかに保身を考えた指揮官が目立った。
 大学に目を向けてみよう。初期のころの教養教育では大正教養主義の存在感が大きい。そこでは阿部次郎の『三太郎の日記』などがバイブルとされ、人格形成が重要な目標にされた。だが、大正教養主義には社会や国家に関する分析や哲学が欠けていた。個人のあるべき姿は考えられたが、社会や国家のそれには十分に考えが及ばなかったのだ。
この欠陥を埋めるように現れたのが、ロシア革命などの影響で形成されたマルクス主義的な教養主義にほかならない。マルクス主義は、一国社会や世界のあるべき姿と、それを実現するための個人の行動とを、包括的に説く世界観で、倫理感の強い多くの若者を引き付けた。「マルクス主義は倫理的ストイシズムであり、教養主義の核を成している人格主義と連続して」おり、「教養主義の内面化の強いものほど」それに引かれたようだ(竹内、二〇〇三)。
 戦時色が濃くなりマルクス主義が弾圧されると、河合栄治郎編の『学生叢書』などをバイブルとする昭和教養主義が台頭する。河合は東大経済学部教授であり、マルクス主義との論争もくぐり抜けた左派自由主義者だったので、昭和教養主義は社会観や国家観に立脚していた。そこでは個人の発揮すべき公共心が明示的に論じられたのである。
 戦後の大学や社会で優勢になったのは教養主義的マルクス主義だ。しかし一九七〇年ごろから、マルクス主義は日本で影響力を弱めていった。高度経済成長により日本が欧米に追いつき、かなり豊かになって、社会主義の魅力が減退したためといえよう。明治維新からちょうど一〇〇年目の一九六八年に、わが国の国民総生産は西ドイツを抜いて世界第二位になっている。
一九六〇年代から七〇年代半ばまで、大学進学率は急激に上昇し、大学は大いに大衆化した(荒井、一九九五)。エリートの養成と密接に関係していた教養主義は、それとともに衰退することになる。竹内(二〇〇三)は、七〇年代ころに蔓延した「大衆平均人の文化」が、教養主義終焉の原因になったと説く。
教養主義の終焉を決定的にしたのが一九九一年の大学設置基準の大綱化で、大学教育の規制緩和によって教養教育軽視が促進されるようになった。日本人の公共心の低下は、大学の制度的変更からも影響を受けたのである。

荒井一博『教育の経済学―大学進学行動の分析』有斐閣、一九九五年。
竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』中公新書、二〇〇三年。

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