経済学部は必要なのか(32) 人社系教育と批判精神


人社系教育と批判精神
 人社系教育の効果としてしばしば言及されるのが、批判精神の育成だ。先に引用した日本学術会議幹事会(二〇一五)の文章のなかには、「人文・社会科学が提供する知識とそれらに基づいた判断力、そして批判的思考力」という表現が見られた。吉見(二〇一六)も、「文系の知は、既存の価値や目的の限界を見定め、批判・反省していくことにより新しい価値を創造することができる知」であるという。本来の批判精神は、広い視野から社会ないしは当事者全体にとって好ましい選択を促すために発揮されるので、公共心の典型例といえよう。
人社系教育による批判精神の育成を特に重視しているのが佐和(二〇一五)で、次のように主張する。「民主主義国家では、企業であれ官庁であれ、旺盛な批判精神を有する人材を求める。人文社会系の学識なくして批判精神なしなのだ。」
佐和(二〇一六a)は、次のように、ドミニク・ド・ビルパンを批判精神の備わった模範的な人物とみなしているようだ。「二〇〇三年二月の国連安全保障理事会で、イラクの大量破壊兵器保有疑惑をめぐり、英米独仏の間で激論が戦わされたが、ドビルパン仏外相(当時)は、イラク攻撃を急ぐ米国を厳しく戒める名演説をぶったことで知られる。ドビルパン氏はナポレオンの研究者としても名高く、詩人でもある。歴史に通暁することは、欧州の官僚・政治家の必要条件である。人文知を欠く者が指導的地位に就くことはあり得ないと言って差し支えあるまい。」ここでは「米国を厳しく戒める名演説をぶったこと」が批判精神の発揮といえるのだろう。
 批判精神は広い知識と懐疑する精神から生まれるので、必ずしも人社系に限定されない、と私は主張したい。自然科学系でも既存の考えを批判した者は多数おり、そのなかには批判によって命を失った者もいる。自然科学系では、往々にして主張の正否の判定が人社系よりも容易なので、批判精神はむしろ発揮されやすいかもしれない。
福沢の『学問すゝめ』に関連して、猪木(二〇一六)は懐疑の精神が権威や権力からの独立と関係していることを論じている。ならば、学問によって身につける批判精神は、権威や権力から独立した精神で学問をする態度のなかにしか育たないはずだ。「懐疑の精神と知識欲の衰弱が社会を文明から後退させると見るのが福澤の学問論の中核なのである。」と彼は説く。
 批判は単なる情報伝達と異なる行為だ。批判精神は「事大主義」や「植民地根性」や「奴隷根性」と正反対の態度であって、個人の広い知識と豊富な経験と強い使命感によって形成される。広い知識を習得するためには刻苦勉励が不可欠で、豊富な経験をするためには安楽な生活を回避する必要があり、強い使命感を抱くためには利他心と固い意志をもたなければならない。批判の対象は集団を形成し既得権益を利用している場合が多いので、批判はきわめて強い妨害を受けるであろう。批判精神を発揮するのは命懸けなのである。

日本学術会議幹事会「これからの大学のあり方―特に教員養成・人文社会学系のあり方―に関する議論に寄せて」二〇一五年七月二三日。
吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、二〇一六年。
佐和隆光「人文知、民主主義を支える」『日本経済新聞』二〇一五年六月二十二日。
佐和隆光「『世界』に認められたければ文系に集中投資せよ」『中央公論』二〇一六年a二月号。
猪木武徳「実学・虚学・権威主義」『中央公論』二〇一六年二月号。

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