経済学部は必要なのか(31) 人社系は公共心をどう育成するのか


人社系は公共心をどう育成するのか
 公共心の育成に関しては、右のような理系の貢献もあるが、ここでは本評論の主要テーマである「文系学部廃止論」に対応させて、人社系の研究と教育の貢献を中心に考えてみたい。
「現在の自己あるいは自己を取り巻く文化や社会の歴史的ルーツは何か、という問いは自己のアイデンティティの問題」であり、「自己肯定を導き出すために必要で重要な過程」だと指摘して、和田(二〇一五)は人文学の有用性を強調する。そして、「こういった問題を考えずして、未来の私たちがどうあるのが望ましいかについて思考することは不可能」だと説く。どう行動することが公共心の発揮なのかを知るためには人文学が不可欠だ、と私は解釈したい。自己アイデンティティに関する知識は、日本人にふさわしい組織や社会を形成したり、国際関係を築いたりするのにも必要だ。
人文学が役立たないというのはまったくの誤解であって、その教育や研究は大きな社会的便益を生む。そして多数の人がその教育を受けて実践しても、その限界便益(追加的な便益)は逓減しない。特に現代では公共心がきわめて希少であるからだ。ただ、人文学の私的な金銭的便益は小さく、そのために多くの論者が誤って「役立たない」といっているのである。
「脳死の問題を考えるためには、日本人の伝統的死生観の吟味は不可欠」だ、と塩村(二〇一五)はいう。他の例として、どんな人生を送れば日本人は満足して死ねるのか、または惜しまれて死ねるのか、という問題を人文学が明らかにすれば、多くの日本人の精神的安定に大きく寄与できる、と私は考える。また、それは現代人の公共心の発揮に大きく影響するだろう。公共目的のために笑顔で死を選択した日本人も少なくないことを思うと、今日の日本人の精神的弛緩が情けなく感じられる。
日本学術会議(二〇〇一)は、「人文・社会科学の純粋基礎的な知識の蓄積と研究が、人間の本質を掴み人々の精神生活を豊かにするというその社会的意義を再評価されなければならないのである」と説く。この言説は日本に限定してはいないものの、公共心の内容と発揮の仕方を知る上で、人社系的知識が有用なことを明かしている、と私は解釈したい。なぜなら、相互依存関係は人間の本質の重要な部分であり、精神生活の豊かさと密接に関係しているからである。
「一人一人の個体のありかた、また社会のありかたも問われることになる人文学の立場からは、現在を絶対視する考えは生まれない。」と多田(二〇一五)はいう。そして、「古典は(累積された知といってもよいが)、私たちの世界観をたえず相対化し、あるいはそれに揺さぶりを与える意味をもつ」と強調する。このような広い視野こそ、公共心の基盤として必要不可欠なのだ。石(二〇一五)は、「物事に対する洞察力を深め、多様な価値観を尊重し、そして自ら人格形成に努めるために、主に人文社会科学に立脚する幅広い教養こそが不可欠なのだ。」と指摘する。
 人文社会科学は、人間の使命感や矜持を強化する可能性をもつ。「(教養崇拝には身分文化を獲得するという不純な動機もあったが)教養を積むことによって人格の完成を望んだり、知識によって社会から悲惨や不幸をなくしたいと思ったことも間違いのないところなのである。」と竹内(二〇〇三)は説く。また、「文学部生の矜持は、自分たちはパンのための学問を学んでいるのではないという自負を肥大させた。」という。こうした勉学態度から、ノーブレス・オブリージュも生じてくるといえよう。使命感や矜持は公共心の孵卵器にほかならない。

石弘光「改革、自らの責任で」『日本経済新聞』二〇一五年六月二十九日。
塩村耕「文学部が消える?」塩村耕編『文学部の逆襲』風媒社、二〇一五年。
竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』中公新書、二〇〇三年。
多田一臣「人文学の活性化のために考えておくべきこと―日本の文学部より」塩村耕編『文学部の逆襲』風媒社、二〇一五年。
日本学術会議「二一世紀における人文・社会科学の役割とその重要性」二〇〇一年三月二六日。
和田壽弘「サンスクリット古典学からの提案―インドの文学部より」塩村耕編『文学部の逆襲』風媒社、二〇一五年。

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