経済学部は必要なのか(30) 公共心の性質


公共心の性質
動物には熊やチータのように単独または母子単位で生きる種類と、狼やチンパンジーのように大きな集団を形成して生きる種類とがある。ヒトは後者の種類で、大きな集団のなかでしか生きられない。しかも、集団のなかで形成される複雑な相互依存関係のありようが、各人の幸福感を大きく左右する。そのありようを決めるものこそが公共心にほかならない。
いうまでもなく、大学以外にも公共心を育成(あるいは破壊)するものがある。家庭や初等中等教育機関はその例だ。今日ではマス・メディアの影響が小さくない。それの生み出す「空気」が、(若年者の)公共心の形成に強く影響するであろう。
「公共心」は法的に強制しにくい行動を生む信念であり、その行動に対する他者の反応も法的に規制しづらい。そのため公共心を発揮すると、他者に感謝されるどころか、人生を狂わせる裏切り行為に遭遇することも少なくない。公共心は公共の利益になっても自己利益になりにくいため、大きな公共心は現実社会で発揮されにくいのである。
公共心にはこうした性質があるものの、日本人は豊富な公共心を生み出す文化を発達させてきた。近隣や藩などの共同体を尊重し、他者に厚い配慮をする文化だ。世界第二位の経済大国という歴史的偉業は、乏しい天然資源という条件の下で、藩の現代版ともいえる企業などの組織を尊重する文化や、口約束が順守される信頼の文化に大きく依存して達成された。伝統的に日本人は、誠実・正直・遠慮・優しさ・思いやりなどの公共的な価値を重視してきたのだ。
その証拠は、低い犯罪率や一般人の気配りなどに、今日でも部分的に見られる。大都市の日本人の行動が秩序だっていることや、紛失物が高い確率で持ち主に戻ることも、公共心のためといえよう。災害時に見せる高い行動規律は世界の人々を驚かす(荒井、一九九七)。日本人の公共心の強さは、これらの例に関するかぎり、依然として世界トップクラスだ。
日本の大学の教養教育では、こうした文化的伝統を基礎にして、どのように優れた公共心が樹立可能かを学生に考えさせなければならない。そこで問題とすべきは、高等教育を受けた者にふさわしい公共心の育成だ。たとえば有力大学の学生には、ノーブレス・オブリージュの精神の育成が是非とも必要である。
残念ながら、経済学部では新古典派経済学的な思考に支配されて、このようなことはまったく行われてこなかった。むしろ、公共心など不要だという教育を行ってきたのだ。日本の伝統文化が優れていることを指摘する日本の論者は少なくない(ただし経済学者にはほとんどいない)。しかし論ずべきは、それらの長所を今日の学問のなかに位置づけ、活用したり発展させたりすることだ。単純に米国を模倣する教育が、なんと深刻な問題を生み出すことか。
生き方としての教養に関しては往々にして人文学が重視されるが、社会科学や自然科学も重要だ。前述のように、社会科学のテーマである「社会のあり方」は個人に望まれる行動を示唆する。自然科学は人間の自然に対する見方に影響し、人間の行動を制約する条件や技術を変えることが可能だ。たとえば、大気汚染に関する知識は個人のとるべき行動を明らかにする。また、医学は寿命を延ばし、工学は移動通信手段を革新して、人間活動の質を高め範囲を拡大する。明らかにインタネットは公共心の行使に影響する。

荒井一博『終身雇用制と日本文化-ゲーム論的アプローチ』中公新書、一九九七年。

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