平成29年10月31日 大学授業料の望ましい制度

  今年になってから、にわかに高等教育を含む教育の無償化の主張がなされています。今月行われた衆議院選挙の争点にもなりました。そして、高等教育の無償化に関連しては、オーストラリアにおける学校納付金の「後払い方式」「出世払い方式」が、マスメディアでしばしば取り上げられています。私は10年前にこの制度について新書の2ページ余りを使って論じたことがあるので、まずそのことを紹介しておきたいと思います(荒井一博『学歴社会の法則―教育を経済学から見直す』光文社新書、2007年、68-70頁)。
 この制度では、大学在学中に授業料を支払う必要がなく、卒業して所得がある水準を超えるようになってから、税金とともに支払うことになります。この制度を導入すると、学校納付金が支払えないから大学に進学できないということがなくなり、貧しい若者にも進学の機会が開かれます。また、大学を卒業してから良好な就職機会に恵まれず低所得に直面しても、未払い授業料のために借金地獄に陥ることがありません。学生は将来所得のリスクを気にする必要がないので、大学進学が促進されます。今日の日本では年功賃金の制度が崩されつつあり、中高年労働者の家計が厳しくなっているので、被教育者が自分で教育費を負担することは理にかなっている、とも同書で指摘しました。
 10年前にこのような指摘をしましたが、反響はほとんどありませんでした。このオーストラリア方式は、それから10年も経って急に議論の対象とされるようになったのです。
 これと関連して、本年530日、日本経済新聞の「経済教室」に下記の文章を投稿しましたが、「1人の筆者の方の掲載間隔は通常、一年程度あけさせていただいております。」ということで、掲載されませんでした。半月前の515日に同紙の「私見卓見」欄に禁煙に関する私の記事が掲載されたため、十分な間をおかずに同一人の文章を掲載できないという返事です。時間を使ってせっかく執筆したので、ここに掲載して読者の参考にしていただけたらと思います。
 ちなみに、その後620日になって、同「経済教室」欄に、「奨学金制度改革、世界基準で」というタイトルで、オーストラリアの授業料支払い方式が二人の豪国立大学教授によって紹介されました。内容を正確に知りたい読者は同欄を参照されたいと思いますが、かなりの部分が下の文章と重なっていると、私は感じています。


大学の教育費用はだれが負担すべきか
憲法改正と関連して、大学教育の無償化が重要課題になろうとしている。経済学の観点から、わが国の大学教育の費用を誰が負担すべきかについて考えてみたい。
その際にまず依拠すべきは社会的厚生最大化の原則だ。相対的に高い能力の者に(恵まれた)高等教育の機会を与えることによって、この原則は満たされる。能力の低い者が高等教育を受け、高い者が受けられなければ、社会的厚生は最大化されない。そのため、低所得者の子どもであっても能力があれば、(恵まれた)高等教育を受けられる制度でなければならない。大学教育無償化は、この原則を満たすための一つの方法になろう。だが、そうすると財源の問題が発生する。
財源すなわち費用の負担者を決める際に依拠すべきは、受益者負担の原則だ。大学教育によって利益を得る者が、その大きさに比例して負担する原則である。受益者が学生本人であるならば、本人ないしはその家族による負担が公正といえよう。ただし、社会的厚生最大化の原則と矛盾しないように、低所得者の子どもでも負担できる制度を考案する必要がある。
 ここで注意すべきは、大学教育に外部経済がありうることだ。つまり、教育を受けた者は、他者や社会全体に利益を与えるかもしれない。例えば、大学教育が優れた政治的指導者や経営者を多く生み出せば、国民一般や組織成員は多大な利益を享受できる。すると、国民も広く教育費を分担するのが公正といえよう。ただ、外部経済の大きさは、大卒者が公共心をどれほど発揮するかに大きく依存する。今日の日本のように個人主義的な価値観の優勢な社会では外部経済が小さく、国民一般は分担にあまり協力的でないかもしれない。
 子どものいない個人は、税金などを通して他者の教育費を分担する義務がない、という考え方もありえる。しかし、外部経済だけでなく、優れた次世代日本人の存在することが高壮年の日本人に生み出す利益を見逃してはならない。これはあまり気づかれていない問題であるが、ある日突如として日本人の若者がいなくなった場合や、すべての働き手が外国人になった場合を想像してみれば、その重要性が理解できよう。個人主義にはこのような文化的問題に対する考察がない。全労働者が日本語を解さない外国人になった場合を想像してみれば、企業も日本人の教育費を分担することに納得するに違いない。
 高等教育を新たに完全無償化して、その費用を普通の税金で賄うことは、重大な問題をともなう。第一は、右の受益者負担の原則に反する可能性があることだ。教育を受けた者が最大の受益者であっても、応分の費用負担をしないことになるかもしれない。第二は、自分の子どものために多額の教育費用をすでに負担した人たちに、さらに負担を強いることだ。第三は、高所得者の子どものほうが(恵まれた)高等教育を受ける傾向が強いので、逆進的な負担になる可能性があることだ。大学進学は授業料以外の要因にも依存するため、無償化されても、高所得者の子どもが(恵まれた)高等教育を受ける顕著な傾向は残存する。そして、大学に進学しない低所得者の負担で、高所得者の子どもが高等教育を受けることになるかもしれない。第四は、毎年数兆円に達する財政支出が永遠に必要となることだ。
 それでは、どのような制度によって、大学教育の費用を分担したらよいのだろうか。まず、右のようなメカニズムで社会全体が大学教育の利益を部分的に得るので、それ相当と見なされる分は、普通の税金を通して負担するのが妥当である。
 学生本人の負担はどうすべきか。筆者は10年前に、教育を受けた者が卒業してから所得高に応じて授業料を負担・返済する方法を提案したことがあり(『学歴社会の法則』光文社、2007年)、現在でもそれが最適な制度だと考えている。この制度はいくつかの特長をもつ。
第一に、それは受益者負担原則に即している上に、在学中の授業料支払いを要しないので、高額授業料のために低所得者の子どもの進学が困難になることはない。第二に、すでに自分の子どもの教育費を負担した人たちは、さらなる負担を強いられない。第三に、所得が一定水準に達しないときは返済が猶予されるため、若者が「ローン破産」を恐れて大学進学を諦めることもない。第四に、この制度では当初こそかなりの財政支出を要するものの、何年か経過して卒業生たちの返済額が大きくなると、財政の健全化に貢献することさえありうる。第五に、親ではなく教育を受ける本人が教育費を払うので、少子高齢化による年功賃金制の部分的崩壊が生む教育費負担の困難化は特に問題とならない。第六に、この制度はオーストラリアなどですでに実施されており、実現のための障害は少ない。
 筆者はかねてから、国公立大学と私立大学の間に、学校納付金の格差がありすぎることを問題視してきた。有力国立大学の学生の多くが高所得者の子どもであり、大学で恵まれた教育を受けているにもかかわらず、なぜ顕著に少ない授業料しか払わなくてよいのだろうか。経済学的には正当化できないこの制度が、ほとんど問題にされることもなく、長期間にわたって維持されてきた。右に提案した制度を使って、この不合理な制度を改める必要がある。すなわち、(恵まれた)大学教育を受けた者は、そうでない者よりも多くの教育費を負担しなければならない。そうすれば、財政の健全化にも貢献することになろう。
 これと似ているのが医学教育の費用負担の問題である。少額の授業料負担で国立大学の医学部を卒業して臨床医になり、高額の所得を得ることは正当化できるのだろうか。医学教育には私大でも多額の税金が投入されているので、私大医学部を卒業した臨床医の授業料負担も検討する必要がある。ほとんどの臨床医は高額所得者であるため、彼らの負担・返済する授業料を大幅に高めて、財政の健全化に貢献してもらうべきであろう。程度の差こそあれ、他の学部に関しても同様な問題がありうる。
 卒業後に授業料を支払う制度は、在学中の学校納付金がゼロなので、実質的に大学教育の完全無償化の一つのあり方ともいえる。ここで提案している当制度の特徴の一つは、広く課税された税金を投入して高等教育を行う制度よりも、受益者負担原則が満たされやすいことにある。
ただこの制度によって、低所得家庭の子どもの大学進学が、高所得家庭の子どもと同程度の容易さになるわけではない。進学すれば、多大な生活費やパソコンなどのための修学費もかかる。低所得家庭による負担は困難かもしれない。教育の機会均等を目指すのであれば、授業料を超えた支援も必要になる。生活費や修学費のための奨学金も、右と同様な後払い方式で制度化できよう。
高所得の親は概して高学歴であって、その子どもは学習環境の点でも有利な状態にある。一層の機会均等を目指すのであれば、低所得家庭の子どもの進学を多少有利にする方策も必要になろう。男女間の機会均等は今日大いに重視されている問題であるが、階層間の機会均等はそれに劣らず重要だと思われる。男女差ほど目立たないので問題にされにくいだけだ。
これと関連して、高所得者の子どもが受験産業のサービスを利用して、入試で高得点を達成することが高能力の証になるのかという問題もある。彼らの高得点は受験産業の効率的な訓練を受けた結果にすぎず、彼らには自ら試行錯誤した経験が乏しく、積極性や開拓精神が欠けるのではないかとも推察される。今日見られる日本経済の停滞の一因も、受験産業が生み出した受動的人間の意欲や創意工夫の欠如にあろう。都会に居住して有力大学の受験に有利であった者が高能力といえるのか、という類似の問題もある。意欲や創造性も含む能力の識別法も研究されるべきである。
日本人の一人ひとりが親の経済力の影響から可能な限り解放されて、その能力にふさわしい教育を受けられると保証することは、憲法に明記する価値があろう。


 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。

荒井一博の英語のブログ  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/
荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/











コメント

このブログの人気の投稿

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

Twitter:過去のツイートの整理 (2) 2018年(b)

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話